【目黒区】源頼朝の愛馬伝説が残されている「葦毛塚」。世田谷区との区境に供養碑が建てられています

葦毛塚(目黒区・世田谷区)

東急東横線・祐天寺駅から徒歩約10分の目黒区五本木1丁目辺り、世田谷区との区境にあるのが「葦毛塚」です。

葦毛塚を中心に道路が2つに分かれて再び合流するようになっているのが不思議な感じ。暴れ川として名を馳せた蛇崩川の名残を思わせます。

一般社団法人めぐろ観光まちづくり協会のボランティアガイド研修でこちらを訪問。今回はこの葦毛塚にまつわる伝説や“葦毛の馬”についてもご紹介したいと思います。

「源頼朝公が乗っていた葦毛の馬が死んだので埋葬した」という伝説が残る「葦毛塚」

葦毛塚の由来

葦毛塚のある場所に建てられている世田谷区教育委員会の碑には以下のように書かれています。

源頼朝が、葦毛の馬にのって、この地を通ったとき、その馬が何かに驚いて沢に落ち込んで死んだという。

また、一説に鎌倉将軍の世、この地の領主 北条左近太郎が仏経をもって出かけたが、その葦毛の乗馬が突然たおれたのでここに、埋めたともいう。

いずれにせよ、遠い昔から葦毛塚と呼ばれていたらしい。このあたりは古くから馬の放牧場であり、馬に関した地名や伝説が多い。

また、「江戸名所図会」「新編武蔵風土記稿」には「頼朝が乗っていた芦毛の馬が死んだので埋葬した」という話が記載されているそうです(参照元:目黒区ホームページ)。

ボランティアガイド研修の時、この場所のガイドを担当された方がもう少し詳しく解説してくださいました。

馬を降りて蛇崩川を渡るように戒めて「下馬」という地名がついた?

下馬という地名の由来にもなった!?

源頼朝公が、奥州藤原氏を討ち果たして鎌倉へ帰る途中のこと。頼朝の愛馬である「葦毛」が目黒の辺りまで戻ってくると、いつになく歩みが遅くなったといいます。

大蛇が狂うようだといわれている蛇崩川は折からの長雨で増水。洪水のたびに崩れるといわれる崖に差し掛かった時、葦毛はバランスを崩して川に落ちてしまいました。

やっとの思いで引き上げましたがすでに息絶えていたそうです。頼朝公の意向で村人たちが塚を作り、「葦毛塚」と書いた墓標を立てたといいます。

その時、源頼朝公が「これから先、この地に来たときは、必ず馬から下りて沢は引いて渡れ」と厳命したことから「馬引きの沢」と名付けられたとか。その後、この場所一帯を「下馬引沢村」と呼ぶようになり、1925年(大正14年)の町制施行で下馬(しもうま)とあらためられたそうです(参照元:駒繋神社ホームページより)。

昭和44年に建てられたばかりの葦毛塚

「葦毛塚」はもともと祠だったそうですが、1969年(昭和44年)8月24日に下馬史跡保存会の第一事業として、現在の「葦毛塚の碑」が建設されました。

ちなみに祐天寺駅から徒歩約15分のところにある「駒繋(こまつなぎ)神社」は、前九年の役に源義家公、頼義公が戦勝祈願をし、奥州藤原氏の征伐に際しては、源頼朝公が戦勝祈願をしたと伝えられる源氏ゆかりの神社となっています。

「葦毛」の馬とはどんな馬?有名な葦毛の競走馬は「オグリキャップ」

葦毛の馬とは?

画像はイメージです

ちなみに葦毛の馬とはどんな馬のことなのでしょうか。

乗馬、競馬の世界では真っ白な馬のことを「白毛(しろげ)/ white horse」と呼びます。そして、真っ白以外の白っぽい馬、グレーがかった馬のことを「芦毛(あしげ)=dapple gray horse/Glaucus」と呼ぶようです。

競馬で葦毛の名馬といえば「オグリキャップ」。昭和末期から平成にかけて日本の競馬史上、最も多くのファンに愛された馬として有名です。

最後に出馬した有馬記念では、ファン投票で1位となるも単勝人気は4番手。しかし直線で先頭に立ったオグリキャップはゴール前でもう一伸びし、後続を抑えて優勝を果たします(引用元:JRAホームページより)。

奇跡の復活に、スタンドからはオグリ・コールが巻き起こったことで歴史にその名を刻むこととなった名馬でした。

目黒区内には地名を含め、他にも馬にまつわる場所があちこちにあります。皆さんも街歩きのついでにぜひチェックしてみてはいかがでしょうか。

↓「葦毛塚」のある場所はこちらになります。

Chikuwa

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