【目黒区】なぜ目黒は人を惹きつける?「めぐろ歴史資料館」で旧石器時代から近代までの目黒の暮らしをたどる

めぐろ歴史資料館

「めぐろ歴史資料館」は2008年(平成20年)9月にオープンした目黒の歴史、民俗資料などに関する資料や文献を集めて展示している区立歴史資料館です。旧目黒区立第二中学校の校舎を利用して開設。

旧目黒区立第二中学校跡を活用して開設

以前は祐天寺駅近くにある守屋教育会館内・郷土資料室で調査研究や資料収集を行っていました。その成果を一般の方にも親しんでもらえるようこちらに開館したとのこと。

目黒はどのような地形や自然、地理的条件の中にあり、どのように人々の暮らしが営まれてきたのかをテーマに、常設展示と企画展示スペースで紹介しています。

目黒は江戸時代に一大行楽地で、江戸のリゾート地のような所でした。でもそれ以前から大勢の人がここで豊かに暮らしてきた痕跡がありました。

そして今も目黒にはたくさんの人が集まり、人気のエリアであるということ。目黒が人を惹きつけるのはなぜなのか、今回はめぐろ歴史資料館で公開されている研究成果、地政学や考古学、歴史とともに、私なりにたどってみたいと思います。

目黒で最も古い人類の足跡は旧石器時代に遡る

旧石器時代から人々が暮らしてきた目黒

私たちが学校で習った歴史は、考古学の発見や母から子へ伝わるミトコンドリアDNAの解析などにより、次々と塗り替えられています。縄文時代は約1万年以上続き、急に弥生時代に切り替わったわけではないということもわかってきました。

そして、目黒で行われた発掘調査から2万5千年前頃から人々が暮らしていたことがわかっています

ミトコンドリアDNAの解析によると、人類(ホモ・サピエンス)の祖先はアフリカから一部の人々が飛び出し、ネアンデルタール人(旧人)と混血しながら世界へと拡散。日本にたどりついたのはおよそ3万8千年前のことと考えられているようです。

旧石器時代は1万6千年前頃まで続いたといわれていますので、目黒に人が住み着いたのは意外に早いタイミングなのではないでしょうか。

ちなみに旧石器時代とは、石を叩いて割り(打製石器)、矢じりなどを作って狩りを行ってきた人々が暮らした時代。

目黒は東京湾に続く目黒川とその支流があり、たくさんの湧き水にも恵まれていました。ここでの暮らしは非常に豊かで住みやすかったことは間違いないことでしょう。

縄文時代から弥生、古墳時代の目黒

縄文・弥生・古墳時代の目黒

目黒の発掘調査により出土した土器や道具などが展示されているエリア。展示室に発見された住居の跡を実物大で表現しています。

展示資料は「中目黒遺跡」「大橋遺跡」「東山遺跡」「土器塚遺跡出土遺物」です。

以前、池尻大橋にある「東山貝塚公園」にお邪魔したことがありますが、公園内に竪穴式住居が復元されていました。すぐそばにある東山貝塚遺跡は、縄文後期~晩期を主体とする遺跡。

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縄文期にこの場所はすぐ近くまで海が迫っていたことがわかっており、公園の中には当時と変わらずに湧き水が流れ続けています。

縄文期は豊かな海の恵みで暮らしやすかった目黒

かつては狩猟生活が主で、土地に定着して暮らしていなかったといわれてきた縄文人ですが、自分たちで木の実や植物を計画的に栽培し、食生活も豊かで文化的にも優れたセンスを有していたことがわかってきました。

目黒の遺跡からも多種多様な土器や道具が見つかっており、縄文中期や弥生時代後期の集落跡も発見されていることから、人々が長くここに定住してきたことがわかります。

やがて稲作がはじまるといくつかのムラができ、富をめぐって争うように。力をつけた豪族が土地を治めるようになると、ムラをまとめるクニができます。

力のある豪族を埋葬するスタイルとして「古墳」と呼ばれる巨大な墓が作られはじめ、古墳時代がスタート。日本の地域によりその古墳の形はさまざまで、前方後円墳・前方後方墳・方墳などいくつかの種類があります。

中でも最も有名なのが「前方後円墳」でしょうか。日本最大の大山古墳(仁徳天皇陵古墳)は世界遺産として「百舌鳥・古市古墳群」の一つとして登録されましたね。

目黒の古墳時代は痕跡が少ない

目黒区内で有名な古墳は目黒区碑文谷にある「狐塚古墳」、目黒4丁目にあった「大塚山古墳」。今ではマンションなどが建ち、かつての面影をみることはできません。

前方後円墳などの痕跡は目黒区内ではみつかっていないそう。しかし多摩川の左岸(世田谷区・大田区)には古墳が集中しています。

東京湾に面した丘陵斜面に横穴を掘り、つくられる「横穴墓」といわれるものです。このスタイルは埼玉県でもたくさん見つかっています。

このことから、現在の埼玉県と東京都にかけて活動した二つの勢力がいたことがわかり、その後「武蔵国」とよばれる大きな勢力へと成長していったようです。

目黒は「武蔵国」として荏原郡(えばらごおり)の一部に

古代の目黒は「武蔵国」の一部

古代史が趣味なので、奈良時代などのことを書き始めると長くなるので、ここでは簡単に。

奈良盆地に各地から人々が集まり、大和朝廷が生まれます。その後、律令制を整備。7世紀末から8世紀にかけて律令整備のために、行政区画五畿七道(ごきしちどう)が設けられます。

五畿七道は毎年、都へ税を運ぶための道路。東山道と東海道をつなぐ役割を担うものとして「東山道武蔵路(官道)」が作られました。現在のJR西国分寺駅を降りると、その痕跡が残されています。

史跡東山道武蔵路・再生展示

史跡東山道武蔵路・再生展示

東海道は下総国府から荏原郡の大井町付近を通り、相模国府まで伸びる街道。荏原郡の税は東海道を通り、東山道武蔵路と合流し、都へと物資が盛んに行き来していたということなのでしょうね。

目黒は世田谷・太田・品川・港・千代田区とともに荏原郡と呼ばれており、平城京跡から見つかった荷札木簡や、武蔵国分寺跡から見つかった瓦に“荏原郡”の名が記されているそうです。

武蔵国分寺へ寄進した瓦が発掘

ちなみに国分寺は741年(天平13年)に聖武天皇(東大寺を建立)が、諸国に建立を命じた国分僧寺・国文尼寺の総称。武蔵国分寺建立時に、荏原郡を含め武蔵国内の各郷から瓦を寄進したということなのでしょう。

歴史作家・関裕二先生と歩く「武蔵国の古代史ツアー」より

史跡武蔵国分寺跡/歴史作家・関裕二先生と歩く「武蔵国の古代史ツアー」より

10世紀に編纂された「和名類聚抄(わみょうるいしゅうしょう)」によれば、荏原郡は蒲田・満田・荏原・覚志・御田・田本・木田・櫻田・駅塚の地域(郷)に分かれていたとのこと。

そのうち、目黒区は覚志・御田にあたると推定されているそうです。

7世紀後半~8世紀後半に編纂された日本最古の歌集『万葉集』に、荏原郡に住んでいた物部歳徳(もののべのとしとこ)と妻の椋椅部刀自売(くらはしべのとじめ)、物部広足(もののべひろたり)の詠んだ歌が残されています。

目黒氏と碑文谷氏の2大勢力が力をつける中世の目黒

中世の目黒の様子

藤原氏が栄華を誇る平安時代の終わり頃から武士が力をつけてきます。鎌倉時代の始まりです。

現在、NHK大河ドラマで放映されている「鎌倉殿の13人」を楽しみに見ているという方も多いのでは?

12世紀から15世紀にかけての目黒では、目黒川流域に勢力を誇る目黒氏、立会川流域を中心に勢力を持っていた碑文谷氏という2つの武士団があったそうです。

鎌倉時代の記録である「吾妻鏡」には、目黒弥五郎や目黒小太郎という名前が書かれており、「目黒」の名前が史料に現れる最も古い例だそう。そして目黒弥五郎は、源頼朝が京都に上った際に、同行したことが記されていたとのことです。

2021年9月にめぐろ歴史資料館で特別展「中世武士目黒氏の軌跡」を開催。目黒から列島各地へと移っていったその足取りを紹介する展示会が開催されたので、足を運んだ方も多いのでは?

目黒出身の武士が鎌倉幕府で活躍していたというのは興味深いですね。

板碑が多数出土

また、目黒区内には「板碑(いたび)」と呼ばれる遺物がたくさん発見されています。板碑とは板石塔婆(いたいしとうば)とも呼ばれ、中世の仏教信仰から生み出された石造供養塔の一種。

鎌倉時代から室町時代に盛んに造られたものだそう。この板碑の分布も目黒氏と碑文谷氏の勢力圏では異なっているようです。

碑文石(複製)

碑文石(複製)

目黒氏の勢力圏である目黒川流域を中心に、阿弥陀如来信仰に基づき造られた「阿弥陀種子(しゅじ)板碑」が出土。碑文谷氏の勢力圏である法華寺を中心に、日蓮宗の法華経信仰に基づいて作られた「題目板碑」が出土しています。

将軍の鷹狩りの地・庶民の行楽地として人気を博した近世の目黒

目黒区内には「鷹番」という地名が残されています。目黒区のホームページによると地名の由来として以下のような紹介がされています。

自給自足のさびれた農村であった目黒の中で、駒場野、碑文谷原、碑文谷池などが、将軍家の格好な鷹場となった。また、鷹場の各所に鷹番を置き、各村に高札を立てて村の連帯責任で見張らせたりしたといわれている。鷹番の地名もこんなところから出たものであろう。

武士の鍛錬や娯楽として鷹狩りが行われた半面、領内の民情や敵地の情勢を探るという政治的な狙いもあったといいます。

三代将軍家光が鷹狩で目黒を訪れた際、行方知れずになった鷹が戻ってくるよう目黒不動尊に祈願したところ、本堂前の松の木(鷹居の松)に無事戻ってきたという逸話がありました。

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その後、1615年(元和元年)に火事で焼失した不動尊の本堂を再建、仏像を寄進するなど手厚く保護。目黒不動尊は参詣行楽地として大変栄えました。

落語になっている“目黒のさんま”も鷹狩りにまつわる内容でしたね。そして目黒がタケノコの名産地となったのも江戸時代でした。

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めぐろ歴史資料館ではこのタケノコの栽培方法や道具なども展示されています。

目黒のタケノコ栽培にまつわる展示

目黒では「目黒式」という独特の方法でタケノコを栽培しており、大変おいしかったといいます。目黒不動門前の料亭でタケノコ飯として売り出し、大人気を博したそうです。

目黒は江戸時代も人々を惹きつける人気の行楽地であり、名物グルメを生み出すパワーがあったということがよくわかりました。

富士山信仰の名残り、目黒に残された二つの富士塚

昔から山岳信仰の場として富士山は神聖な山として親しまれてきました。高台が多い目黒からは今も富士山を見ることができるので、江戸時代の庶民にとって手頃な“冨士見”の場所として人気があったことでしょう。

江戸中期ごろから富士山を神体としてあがめる民間信仰「富士講」がここ、目黒でも盛んになりました。しかし、庶民にとって富士登山などは夢のまた夢。

そこで作られたのが「富士塚」です。1812年(文化9年)に上目黒村(現在の上目黒1丁目辺り、目切坂上)に広重の描いた「目黒元不二(目黒元富士)」が築造されました。

【目黒区】目黒にも富士山がある!?上目黒氷川神社で富士講(目黒富士登山)をしてきました

こちらの遺構は現在、池尻大橋にある上目黒氷川神社でみることができます。

上目黒氷川神社に残されている元富士

上目黒氷川神社に残されている元富士

そして1819年(文政2年)に、2つ目の「目黒新富士」が築造されます。目黒新富士は択捉島探検で知られる近藤重蔵が、三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒二丁目)の邸内に築いたものです。

こちらは現在、自然石の碑が残されているだけとなっています。

必見!目黒新富士「胎内洞穴」を復元した展示

富士講で使われた「胎内

富士講地下式胎内遺構

めぐろ歴史資料館を訪れたなら、富士講地下式胎内遺構を再現した展示は必見。胎内洞穴とは、富士の洞窟(過去の噴火でできた風穴などで、内部の形態が胎内に似たもの)に見立てて作った地下遺構のことです。

1991年に目黒新富士があった場所を発掘したところ、地下4mのところに胎内洞穴を発見。調査時に遺跡全体を樹脂で型どりし、再現したものをめぐろ歴史資料館で展示しています。

富士講では富士山に参拝する前日、ここを「胎内」として巡ることで自身を清め、“生まれ変わり”を体験するのが決まりでした。本物の富士山に登ることができない庶民でも、目黒でこの胎内洞穴や目黒富士で信仰を深めていたということですね。

発掘の際、胎内洞穴の最奥で大日如来座像が発見されました。

発掘で発見された大日如来像

胎内洞穴から発見された大日如来座像

発見時の大日如来座像は床下に水平に安置され、埋めた後、粘土で塗り固められ、さらに火で焼いて埋めた痕跡そのものを隠すようにしていたとか。

大日如来座像発掘現場の再現

発見状況もですが、その他にもさまざまな謎が残されている胎内洞穴。そのミステリアスな発掘成果を、ぜひその目で確かめてみてはいかがでしょうか。

近代から現代へ懐かしい暮らしが蘇る、昔の道具展示コーナー

昔の道具展示コーナー

最後は一昔前に使われてきた暮らしの道具を展示するコーナー。農作業や生活道具などを知ることができます。

私がめぐろ歴史資料館を訪れた際は特別展示として「昔のくらしと道具展 つくるということ」を開催していました。

道具にみる暮らし展

私自身が子どものころ祖母の家や実家にあった道具などもあり、とても懐かしい気持ちになりました。今はとても便利になりましたが、昔の道具には何とも言えない味わいがあります。

今回、めぐろ歴史資料館を訪れてみて、目黒が昔から人々を惹きつけてきた理由の一端を感じることができました。子どもたちの校外学習などで訪れるだけではもったいない!

めぐろ歴史資料館は入館無料

ぜひ、皆さんも足を運び、目黒という街をより深く知ってほしいと思います。入館料はなんと「無料」ですよ!

おまけ!府中で古代の武蔵国や江戸時代の鷹狩りの様子を体験することが可能

ちょっと脱線してしまいますが、武蔵国と江戸の鷹狩りについてもっと知りたい方におすすめしたい場所があります。それは府中市!

奈良時代から平安時代に武蔵国(東京都・埼玉・神奈川の一部)を治めた役所の所在地である「国府(こくふ)」が置かれ、その中枢にあった「国衙(こくが)」が、府中の大國魂(おおくにたま)神社境内から東側にかけて見つかっています。

大國魂神社そばにある武蔵国跡

武蔵国跡(武蔵国衙地区)/歴史作家・関裕二先生と歩く「天武天皇と聖武天皇の夢の跡」より

“府中”という地名は、この「国府の中」にあることからそう名付けられたそうで、国史跡として大國魂神社のそばに保存・展示されています。

国史跡・武蔵国府跡(国司館地区)

国史跡・武蔵国府跡(国司館地区)

そして南武線・府中本町駅前に広がる史跡、国司館地区では古代武蔵国府の国司館と徳川家康府中御殿をVR映像で復元。国府で行われていた行事や鷹狩りの様子を臨場感あふれる映像で体験することができます。

発掘調査で徳川将軍家初期の「三葉葵紋」の鬼瓦が発見され、ここに府中御殿があったことが証明されたとのこと。家康が鷹狩りなどを行う際に滞在した施設で、多摩川越しに富士山を望むことのできる府中随一の景勝の地でした。

歴史好きな方ならぜひ、めぐろ歴史資料館とともに、こちらにも足を延ばしてみることをお勧めします。

■取材協力

めぐろ歴史資料館

※本文中の武蔵国跡写真は、新潮講座 神楽坂教室主催で開催された、関裕二(歴史作家)先生と歩く「武蔵国の古代史ツアー」「天武天皇と聖武天皇の夢の跡」より。関先生、新潮講座 神楽坂教室様、ご協力ありがとうございました。

↓「めぐろ歴史資料館」の場所はこちらになります。

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