【目黒区】目黒「ホテル雅叙園東京」の百段階段が99段の理由とは?超絶技巧の一流アート空間で庶民をもてなしたホテルの歴史

ホテル雅叙園東京・百段階段は東京都指定有形文化財

贅を尽くしてつくられた日本美のミュージアムホテル「ホテル雅叙園東京」。旧・目黒雅叙園時代から受け継いだ歴史ある美術品や建造物が残されており、ホテルとしてリブランドされたことから海外からのお客様に大人気の滞在先となっています。

今回は「ホテル雅叙園東京」の魅力を徹底取材。前編ではホテルやレストラン、パブリックスペースの素晴らしさをダイジェストにお伝えしました。

【目黒区】目黒「ホテル雅叙園東京」を取材!90年以上愛され続けるおもてなしの神髄に迫ります

後編では、いよいよ東京都指定有形文化財「百段階段」をご紹介。ホテル雅叙園東京と目黒の歴史についても触れていきたいと思います。

“百段階段”は旧・目黒雅叙園の3号館、現存する唯一の木造建築物

目黒雅叙園時代の建物図

前編でも軽く触れましたが、ホテル雅叙園東京の前身は料亭であり、日本初といわれる総合結婚式場、旧・目黒雅叙園です。

創業者である細川力蔵さんは1928年(昭和3年)に、芝浦にあった自宅を改築し、庶民でも気軽に利用できる料亭として「芝浦雅叙園」の経営を始めました。その後、1931年(昭和6年)に目黒の土地を手に入れ、本格的な北京料理・日本料理を提供する「目黒雅叙園」を開業。

旧・目黒雅叙園

旧・目黒雅叙園(画像提供:ホテル雅叙園東京)

“雅叙園”という名前の由来は中国の言葉である“文雅叙情(ぶんがじょじょう)”であると伝わっており、「一日居ても飽きることなく優雅に過ごせる」を意味するそうです。

お料理はもちろん、訪れた方が本物の芸術品に気軽に触れ、夢み心地で過ごせる空間をと考え、豪華絢爛な装飾を施し、美的空間を作り上げました。

現在残っているのは“百段階段”がある3号館だけですが、1943年(昭和18年)までの12年間をかけて次々と増築。約2,500点もの日本画や美術工芸品などを収蔵するミュージアムホテルとして現代もなお、目黒の街のシンボルとして地元から親しまれています。

「ホテル雅叙園東京」があった場所は細川越中守の下屋敷があったところ

NHKの人気番組「ブラタモリ」で“江戸のリゾート”として紹介されていた目黒。つい先日、2021年10月12日にも再放送されていましたね。

ホテル雅叙園東京に向かう行人坂

江戸時代は目黒不動尊への参拝や富士山が見える絶好のスポットとして大人気だった目黒。目黒駅からホテル雅叙園東京へ向かう行人坂は目黒不動尊への参詣路として多くの人が行き交う場所でもありました。

番組内でもホテル雅叙園東京の百段階段を紹介。ホテルが建っている敷地はもともとは肥後(熊本)藩・細川越中守の下屋敷(別荘)だった場所だそうです。

歌川広重・江戸百景

歌川広重・江戸百景

江戸時代の浮世絵師・歌川広重が描いた「目黒太鼓橋夕日の岡」という作品は、行人坂を下ったところにある目黒川に架かる太鼓橋を描いたもの。この他にも目黒の風景を描いた作品を数多く残しており、当時の人にとって目黒は名峰・富士山を望む景勝地・行楽地として親しまれていたことがわかります。

いまでも天候に恵まれれば、美しい富士山の姿を眺めることができる目黒。江戸の頃は高層ビルなどはなかったので、より一層くっきりと鮮やかに見えていたことでしょう。

斜面に沿って建てられた7部屋を99段の長い階段廊下が繋ぐ“百段階段”

ホテル雅叙園東京・百段階段

通称・百段階段と呼ばれる木造建築物は、1935年(昭和10年)に建てられたものです。企画展開催時のみ一般公開されています。

斜面に沿って建てられた7部屋は、宴会や結婚披露宴などに使われていました。昭和初期の日本は木造建築や美術工芸の技術やレベルがピークだったといわれ、トップクラスの芸術家や職人ら数百名が参加して作り上げたまさに“美術の殿堂”ともいえるスペースになっています。

二度と同じものを創ることはことは不可能であるといわれている百段階段。大工、画家、職人などあらゆる分野の匠たちの競演による超絶技巧と美意識の数々をご紹介していきましょう。

ちなみになぜ99段なのに“百段階段”?

百段階段を上から見る

昔から日本では数が多いものを“百”や“千”などということばで言い表してきた歴史があります。99段なのに“百段階段”と呼ばれているには諸説あるそうですが、一言でいえば縁起担ぎのためだったのではといわれているそうです。

1.奇数は陽数であり、縁起の良い数だから

日本の五節句が代表的で、1月7日の「人日(じんじつ)の節句=七草粥を食べる」、3月3日の「桃の節句=ひな祭り」、5月5日の「端午の節句=男の子の成長を祝う」、7月7日の「七夕」、9月9日の「重陽の節句=菊酒を飲んで長寿を祝うなど」があります。

他にも七五三や三々九度など、日本には奇数にまつわるお祝い事がたくさん。縁起の良い数字の中でこれ以上にない大きな数字“9”を重ねて99段としたという説です。

2.未完の美学であり、完璧な数字より発展性のある数字に

「完璧な状態=100」は長く続かないという考え方から、あえてひとつ数字をひいた。さらに良くなる余地を残して99段にしたという説です。

日本の家屋には人目に付かない場所に未完の場所をつくるというゲン担ぎもあったようです。

百段階段へは1階ロビーから螺鈿エレベーターで3階へ

ホテル雅叙園東京・螺鈿エレベーターの内部

(画像提供:ホテル雅叙園東京)

黒漆で塗られたエレベーターには豪奢な螺鈿細工が施されています。エレベーター内部には虹色に輝く牡丹や金色に輝く唐獅子が左右に描かれていました。

ホテル雅叙園東京の螺鈿エレベーター

百段階段へと向かうお客様は、まずこのエレベーターの豪華さに目を見張ります。これだけの大きさに漆を吹き付け、細工を施すには大変な技術が必要なことでしょう。

ミュージアムホテルならではのおもてなしですね。

百段階段の途中に”階段だけ”の場所もある!?

百段階段の途中に階段だけの場所もある

また、百段階段の途中にはなぜか階段だけが残された不思議な場所も!草丘の間と静水の間の間にあります。

他の棟に繋がる廊下があったのですが、不要になり取り壊したこと。さらに別の部屋を増築しようと考えていたが、戦時中に焼失してしまったことなどが理由のようです。

第二次世界大戦中は、海軍の病院として使われてきた建物だったことから、空襲を逃れることができたのではといわれています。

時代の運命に翻弄されながらも、戦火を生き延び、今もなおこの貴重な美術品を受け継ぐことができたのは奇跡というべき出来事かもしれません。

それでは、順番にお部屋をご紹介していきましょう。

贅沢に施された螺鈿細工と花鳥画の天井画が印象的な「十畝(じっぽ)の間」

百段階段・十畝の間

十畝の間

百段階段がつなぐ一つ目のお部屋は「十畝の間」。横山大観さんと並ぶ近代日本画壇の大家として有名な荒木十畝さんが描いた四季淡彩花鳥の天井画が特徴です。

欄間の下の長押(なげし)、床の間の落掛(おとしがけ)、床框(とこがまち)などに施された黒漆螺鈿細工が見事。螺鈿細工は夜光貝やアワビ貝などの貝殻内側にある、虹色に輝く部分を薄く切り出し、文様の形に切って貼り、漆で塗りこめて仕上げる非常に手の込んだものです。

十畝の間の細工の豪華さ

ここまで螺鈿細工が施されている部屋は非常に珍しいとのこと。ぜひじっくりと鑑賞していきましょう。障子の細工もこれほど手の込んだものは初めてみました。

十畝の間の天井画

さらに天井を見上げると、格子型に組まれた格天井(ごうてんじょう)になっています。お客様をお迎えする広間などに使われる格式ある様式。百段階段のほとんどのお部屋はこの様式を採用しているそうです。

格縁の組手には、金の金具と七宝焼きの装飾が施され、荒木十畝さんの四季淡彩花鳥画の美さを際立たせる豪華な造り。床柱も一位(いちい)の銘木を使い、重厚感をさらに高めています。

百段階段で最も格式の高いお部屋となっています。

極彩色の彫刻に圧倒される豪華絢爛な「漁樵(ぎょしょう)の間」

漁礁の間

続いて2つ目のお部屋は「漁樵の間」。漁礁とは、立場の違う漁師と樵(きこり)が哲学談義を繰り広げるという中国の“漁樵問答”をモチーフにしたものです。

床柱には樹齢280~300年にもなる巨大な檜が使われており、向かって左に漁師、右に樵が精巧に彫り上げられています。下の写真では漁師が竿を持っていますが、この竿も1本の檜から掘り出したもので、後からつけ足したわけではありません。

1本の檜に彫刻した床柱

漁師は立った姿で、樵は座った姿で彫られており、この部屋で描かれているすべての絵が立位・座位というように対比した姿で描かれています。

立体的に活き活きと表現されている床柱の彫刻

極彩色の彫刻や純金箔、純金泥、純金砂子で仕上げられた彩色木彫と日本画と、室内の絢爛豪華な装飾につい目を奪われてしまいますが、細かい細工と活き活きとした表情など技術・芸術性にため息がでます。

旧・目黒雅叙園の彫刻のほとんどを手掛けたといわれているのが盛鳳嶺(さかりほうれい)さん。創始者である細川力蔵さんと同郷の石川県出身で、漢方医でありながら、漆塗師・木彫刻師でもありました。

原図をもとに浮彫にされている天井や欄間の絵

漁樵問答の床柱は尾竹竹坡(おたけちくは)さんが描いた原画をもとに、盛さんが彫り上げた作品。欄間も尾竹さんの作品で、五節句をモチーフにした原図を鮮やかに浮彫で仕上げています。

格天井にはめ込まれている絵は菊池華秋さんが描いた四季草花図をもとに浮彫にしたものです。

漁礁の間の障子

さらに障子にも注目。上部が複雑な曲線になっている火灯窓(かとうまど)という意匠で、神社や城郭などの建築に使われるものです。

釘などを使わず、さまざまな角度で組み込むことで模様を作り出す、組子細工といわれる日本の優れた工芸技術を間近にみることができます。

晴天時には富士山も見えた「草丘(そうきゅう)の間」

百段階段・草丘の間

欄間・天井に風景画を得意とした礒部草丘さんの描いた四季草花絵、瑞雲に煙る松原の風景が描かれているお部屋。もともとは2つのお部屋が1つになってしまったことから、仕切部分にあった夏の絵がなくなってしまったのが残念です。

磯部草丘が手掛けた欄間・天井絵

天井には15面の秋田杉に花鳥画が描かれており、格縁(ごうぶち)の装飾がシンプルな造りになっています。これは絵を活かすことを優先させた意匠なのではといわれています。

この部屋のもう一つの見どころは四隅に使われている五寸角(約15㎝角)の面皮(めんかわ)柱。面皮柱とは、角は丸のまま残し、四面に木目を出したもので、主に茶室に使われるものです。

この美しい木目を出すためには少なくとも樹齢35年以上の木材を使わなければならず、さらに同じ太さ・真っすぐなものを揃えるとなるとかなり大変だったことがわかります。大変貴重な建築意匠なので、その点もぜひ注目してみてください。

草丘の間の格子窓の細工

草丘の間は、晴天時には富士山が見えたことから人気の宴会場だったとか。窓の桟に施されている細かな細工も素晴らしく、ぜひ見逃さないようにしてくださいね。

扇の中に描かれる絵が印象的な格天井「静水の間(せいすいのま)」

静水の間

静水の間は、控えの間と奥の間に分かれており、全体的にコンパクトな造りながら、格天井や床の間などのしつらえが印象に残るお部屋です。

戦前は山川秀峰(しゅうほう)さんの絵が飾られていたことから”秀峰の間”と呼ばれていたそうですが、池上秀畝さん、小山大月さん、長嶋華涯さん、橋本静水さんが手掛けた絵が取り入れられいつの間にか静水の間とよばれています。

奥の間の天井が、今までの部屋の格天井と異なる造りであることに注目。格縁は秋田杉を吹寄せにし、扇面に池上秀畝さんの手による鳳凰・松が描かれています。いずれも吉祥画で、元は神殿の天井画だったものだそうです。

静水の間の天井画

控えの間の天井画は橋本静水さん他の画家によるもの。控えの間の床框にある檜のうるみ漆塗黒ぼかしは珍しい意匠だそうです。

また、長押には杉材を使用していますが、節が一切ないのは非常に貴重なもの。杉を育てる過程から丹念に枝を落として節が出来ないよう手間をかけて育てなければならないそうです。

静水の間の超絶技巧・柱の仕上げ

そして、写真ではわかりにくいですが、長押と床脇の欅材とのつなぎ目もチェックポイント。これは真っすぐな杉材を欅材の凹凸にぴたりと合わせるように細工してつなぎ合わせているそうです。

いったいどんな技術をもってしたら、このように美しく仕上がるのか想像できません。

京都・北山杉天然搾り丸太を贅沢に使った「星光の間(せいこうのま)」

星光の間

北山杉は室町時代頃からつくり始められたといわれ、茶室や数寄屋造りの建築用材に使われてきた歴史があります。約600年以上の歴史を持つ、北山天然絞り丸太が随所に使われているのがこの部屋最大の見どころ。

そして部屋の名前の由来となった板倉星光さんが手掛けた絵が、天井、欄間、襖絵に使われています。星光さんは、女性美を追求した京都画壇を代表する画家。

得意とする美人画はありませんが、柔らかで明るく、すっきりとしたタッチで描かれた四季の食材、天井には四季草花図、襖には草花図が描かれています。他の部屋とは異なる印象でおもしろかったです。

星光の間で展示会を開催中

取材当時は企画展のためバラのオブジェが飾られていましたが、手作業で仕上げたという障子の組子の美さは圧巻。ここまで細かい格子は見たことがありません。

日本の伝統技術、その芸術性の高さには圧倒されっぱなしです。

繊細な意匠も見所のひとつ「清方の間(きよかたのま)」

清方の間

清方の間は、目黒を愛した近代美人画の巨匠である鏑木(かぶらき)清方さんが手掛けた四季草花、四季風俗美人画が飾られているお部屋です。鏑木清方さんは清らかで優美な女性画やいきいきとした庶民の生活を数多く描いた画家。

1954年(昭和29年)には文化勲章を受章しています。

茶室風にしつられた二間続きで、奥の間の床柱は、径一尺五寸の北山杉の天然総絞丸太。これだけの逸材は市場に出回ることは大変稀だそう。廻り廊下の北山丸太を扱った化粧軒、障子建具、組子など、どれを取り上げても手の込んだ細心の造りとなっています。

天井は網代天井と呼ばれているもので、神大杉と秋田杉を薄くスライスして網目状(市松模様)に編んで仕上げたもの。ここにはめ込んだ扇面形杉柾板に清方さんの四季草花が描かれており、さらに見ごたえのある作品となっています。

欄間に描かれている美人画も繊細なタッチで美しい仕上がりです。目黒の名所を紹介した絵もあるので、そちらもぜひ注目してみましょう。

手前にある控えの間には、床柱や落掛、水屋の羽目板に南米材のパープルハートという珍しい材が使われています。また三段の棚板はゴンサロ・アルベス、天袋・地袋・前地板はゼブラ・ウッドといずれも南米産。

館内にこのように南米の材木が使われている理由は、昭和初期頃に南米から綿花を輸入する際、船のバランスをとるために現地の木材が一緒に積まれてきたことに関係しているそうです。

当時の建築資材は国産材木が中心。しかし、南米の木材も大変質が高く、逸材揃いだったことに目を付けた創業者が、大量に買い取ったそうです。

現在これだけの逸材を手に入れることは不可能ともいわれており、床柱1本で家一軒がかえるだけの値打ちがあるとか!単なる柱として見るのではなく、希少な銘木を愛でる気持ちでぜひ鑑賞してみてはいかがでしょうか。

外光がたっぷりと注ぎこむ「頂上の間」

頂上の間

百段階段の最上階に位置する部屋が頂上の間(ちょうじょうのま)です。天井画は松岡映丘(まつおかえいきゅう)門下の作品。松岡映丘さんは民俗学者として有名な柳田国男さんの弟です。

頂上の間の天井画

西村五雲さんが欄間に絵を描く予定でしたが亡くなってしまったために未完となってしまいました。このため、長らく倉庫として使われてきた経緯があります。

2009年に旧・目黒雅叙園創業80周年を迎えるにあたり、公開されることに。他の部屋に比べるとさっぱりとした印象に感じますが、格天井や本間の床柱に黒柿の銘木を使用するなど、見どころはたくさんあります。

黒柿の床柱にも注目

黒柿は樹齢150年以上の柿の木にしか出ないといわれている文様で、大変貴重なもの。こういった細かなところまで注目してみると、いかに時間とお金をかけて、妥協を許さずに丁寧に創り上げた意匠なのかがわかりますね。

「ホテル雅叙園東京」の文化財「百段階段」は、日本人の美意識、最高到達点と称されるもの

日本人の美意識、最高到達点

(画像提供:ホテル雅叙園東京)

ホテル雅叙園東京の百段階段は2019年に大規模な耐震工事や建材・美術保全を行いました。最近の研究によると、その豪華な装飾は桃山風、更には日光東照宮の系列、あるいは歌舞伎などに見られる江戸文化に属するものとも言われているとか。

百段階段はその装飾の美しさから見ても、伝統的な美意識の最高到達点を示すものとされています。2001年に国の登録有形文化財に、2009年には東京都指定有形文化財に。ホテル雅叙園東京で現存する唯一の木造建築として、存在そのものが美術品です。

ご紹介してきた通り、一つ一つの部屋の意匠や細工、飾られている絵画など、どれをとっても唯一無二の芸術作品であり、江戸時代から受け継がれてきた日本の美意識の頂点ともいうべきつくりになっています。

大工や職人たちの超絶技巧が細部まで貫かれている

細部にいたるまで大工、画家、職人などあらゆる分野の匠の超絶技巧が息づいており、今では再現不可能ともいわれる類まれな“建築の美”ともいうべき希少な存在。

旧・目黒雅叙園が造られた時期は、1929年(昭和4年)に端を発した世界大恐慌の後であったこと。このため、優秀な職人や一流の芸術家を集めやすかったというタイミングもああったとか。

また、仕事を失った腕利きの職人・作家を集め、目黒に住まわせながら安心して創作活動・建築に専念できるよう取り計らったといいます。細川力蔵さんの細やかな気遣いを感じさせるエピソードですね。

財力だけではない、アイデアマンとしての才能と確かな審美眼があったからこそ生まれた旧・目黒雅叙園

雅叙園を一代でつくりあげた細川力蔵

旧・目黒雅叙園を一代で築いた細川力蔵さん。小学校卒業後、同郷である石川県出身の経営者が東京神田で経営する浴場で住み込みで働いていたそうです。

その後、1912年(大正元年)に23歳という若さで浴場の経営者に。持前の商才を活かし、実業家としての頭角を現します。

芝浦にあった自宅を改築して料亭経営に乗り出したのが1928年(昭和3年)。手狭になったため、1931年(昭和6年)に目黒に土地を購入して開業したのが旧・目黒雅叙園でした。

一般大衆が文化や経済を動かし始めた昭和初期。“庶民”出身だった細川さんが目指したのは、一般大衆でもわかりやすく”お大尽気分”が味わえる夢のような料亭をつくることです。

タクシー会社を買収して、旧東京市内どこからでも送迎するというサービスや、日本初の総合結婚式場を考案したこと、お客様をおもてなしするために従業員は客として旧・目黒雅叙園を訪れることを禁止するなど、さまざまな革新的なサービスや信条を貫いてきました。

その”力蔵イズム”というべきホスピタリティは、今もなお「ホテル雅叙園東京」にも受け継がれています。

ぜひ1度足を運び感じて欲しい「ホテル雅叙園東京」の唯一無二の存在感

ホテル雅叙園東京に貫かれている美学や存在意義

(画像提供:ホテル雅叙園東京)

江戸時代からのリゾート地として栄えてきた目黒の歴史。そして、細川力蔵さんが貫いた独自の美学。

ホテル雅叙園東京が所蔵する美術品の数々もさることながら、ここ目黒の地で世界にも誇れる素晴らしい日本の伝統技術・工芸品が残されていることにも感動しました。

百段階段で定期的に開催されているイベントは、地元民にとってワクワクするようなアートイベントとして愛され続けているのもうなづけます。

まだ体験したことがないという方はぜひ一度、足を運んでみてはいかがでしょうか。

また、日本美のミュージアムホテルとしてのホテル雅叙園東京も捨てがたい魅力のひとつ。海外からのお客様が戻ってきて予約が取りにくくなる前に、ぜひ宿泊してその美学の結晶を堪能してみましょう。

■取材協力
ホテル雅叙園東京

ホテル雅叙園東京の場所

↓「ホテル雅叙園東京」がある場所はこちらになります

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