【目黒区】地元から“お酉さま”と敬愛される「大鳥神社」宮司さんにインタビュー、目黒の地名と関わる歴史に迫ります
目黒区で最古といわれる大鳥神社。日本書紀に登場する日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の白鳥伝説と関わりがあり、江戸時代以降は酉の市でもおなじみの古社です。
今回は大鳥神社の宮司である堀江久教さんにインタビュー。大鳥神社の由緒や歴史、神事などについてお話いただきました。
1回目は大鳥神社の由緒や歴史について。2回目は神社で行われている神事について。3回目は2021年の“酉の市”の様子をレポートします。
2021年1月23日(日)にめぐろ観光まちづくり協会主催で開催される「目黒観光検定」にもきっと取り上げられるはず!
目黒区民の方でも知らない方が多いのではないかと思われる、大鳥神社の豆知識も満載でお届けします。
目黒「大鳥神社」の創建は?社殿が造営されたのは806年(大同元年)
大鳥神社の社殿が造営されたのは806年(大同元年)。桓武天皇崩御の後に即位した第51代天皇・平城天皇の御代です。
しかしもともとは、景行天皇の御代(71~130年)に国常立尊(クニノトコタチノミコト)をお祀りする社がこの場所にありました。その時代、景行天皇の皇子である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が立ち寄られ、東征(北関東から東北地方での戦い)平定と部下の眼病平癒を祈願。
その願いが聞き届けられたという縁起が残されています。
『113年(景行43年)に日本武尊は亡くなりますが、その御魂は大きな白い鳥となり、全国各地に飛んでいきました。この時、目黒の地にも舞い降り、その姿を村民が見かけたことから、国常立尊と合祀し、大鳥神社としての歴史が始まりました』と宮司・堀江さん。
社伝には以下の記述が残されているそうです。
尊の霊(みたま)が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神(とりみょうじん)として祀る
それではここで簡単に日本武尊と白鳥伝説についてご紹介しましょう。
・景行天皇に命ぜられ、大和政権に抵抗する南九州の熊襲健(クマソタケル)を征伐
・続いて東国平定を命ぜられ、伊勢神宮で叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)から素戔嗚尊(スサノオノミコト)の神剣・天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ=草薙の剣)を授かり、数々の苦難の末に無事平定
・大和に帰る途中、尾張の宮簀媛(ミヤズヒメ)を娶り、近江国・伊吹山にいる荒神を退治しに出かけるが、神の毒気にあたり、故郷へ戻る途中で現在の三重県で亡くなる
・日本武尊の御陵(宮内庁が治定しているのは亀山市、御所市、羽曳野市の三カ所ある)から白い大きな鳥(シラトリ)が天高く飛び立っていった
・故郷である大和へと帰る際に、白鳥が立ち寄った場所に“白鳥伝説”が残されている
縄文時代から人々が豊かに暮らしてきた目黒
国常立尊(クニノトコタチノミコト)とは、日本書紀で紹介されている国造りに関わった神様のひと柱です。
『目黒という土地は、縄文時代の遺跡がたくさん残されており、古くから人々が豊かに暮らしてきた土地でした。湧き水が豊富で、すぐ近くまで海が入り込み、食べ物が豊富で暮らしやすかったと思います。
その目黒の鎮守として村人から祀られてきた国常立尊に、戦勝祈願で立ち寄られた日本武尊。亡くなられて白鳥となり、全国の縁があったところに現れ、この目黒の地にも舞い降りるのをみた村人が、鳥明神として合祀しました。
神社の名である“大鳥”とは、日本武尊のことを表し、神社の主祭神としてお祀りしているということです』と堀江さん。
大鳥神社では日本武尊の他、妻である弟橘媛(オトタチバナヒメ)と国常立尊をお祀りしています。弟橘媛は、日本武尊の東征に同行し、走水の海(浦賀水道)で海神に祟られ、船が進まなくなった際、その身を海に投じて鎮めたと伝わります。
このことから夫婦円満や恋愛成就の神様として信仰を集めている神様。大鳥神社では結婚式も執り行っていますので、婚約中のカップルの方、ぜひ検討してみてはいかがでしょうか。
「大鳥神社」の霊験、日本武尊の部下“眼病平癒”と目黒の地名に関わりが!?
宮司である堀江さん、目黒の地名の由来になった諸説について、あまり知られていないエピソードがあるといいます。
『日本武尊が当社に戦勝祈願と部下の眼病平癒を祈願された際、夢枕に神様(国常立尊)が立ち、境内の木の実を使うと病が治るというお告げがあったそうです。
神様のお告げ通りにしたところ、無事に治癒しました。このことから日本武尊が、当社の神様のことを“盲神(めくらかみ)”と讃え、感謝の気持ちを込めて十握剣を奉納されました。
この盲神(めくらかみ)の“めくら”ということばがだんだんと訛っていき、目黒という地名になったという説です』
『現在、めくらということばは、差別的な表現として使われなくなりました。このため、大鳥神社に残されている縁起が表にでにくくなり、いつしか人々の口に上らなくなってしまったのは大変残念なことです』とおっしゃっていました。
目黒区役所の公式ホームページをみると、目黒の地名の由来については以下の4つのパターンが紹介されています。
- 馬畔(めぐろ)説:馬の牧場が多かった、馬と畔(あぜ)道を意味する馬畔(めぐろ)という音から生まれた
- 地形説:丘陵地帯である目黒、「め」はくぼ地とか谷を、「くろ」は嶺を意味するのでその音が結合した
- 馬の毛色説:優れた黒馬が多かった、黒色の馬を驪「くろ」と書き、また「め」は「愛でる(めでる)」のようにかわいいとか優れていることを意味することから
- 目黒不動説:目黒、目白、目赤、目黄、目青の五色の不動尊が実在し、当地に目黒不動尊があるところから、目黒という地名が生まれた
このほかに、大鳥神社や豊かな地味にちなんだ説などもある、と簡単に記載されているのみ。TV番組等で目黒不動説が大きく取り上げられることがありますが、目黒不動尊の正式名称は「瀧泉寺(りゅうせんじ)」です。
江戸時代に人気を博し、江戸五色不動の一つとして注目を集めたことを考えると、こちらが由来説というよりも、目黒の地名があったから“目黒不動尊”と呼ばれるようになったという方がしっくりくる気がしました。
「大鳥神社」の例大祭で奉納される“剣の舞”は、日本武尊の徳を讃えて行われる神事
日本武尊の祈願成就により大鳥神社へ奉納された十握剣。その徳を讃え、十握の剣を背に、八握の剣を握って踊る、華麗な太々神楽(だいだいかぐら)“剣の舞”が、毎年9月9日に近い土日で披露されています。
11月の酉の市では太々神楽“熊手の舞”として神前で披露。熊手の舞は、日本武尊が焼き討ちの難に遭った時に、先が三方に分かれた金属製の熊手を使って火を防ぎ、九死に一生を得たことに由来するものだそうです。
剣には邪気を祓う力があることから、疫病をもてなし、鎮めるものとして今もなお厳粛に行われている神事となっています。
「大鳥神社」の境内をダイジェストにご案内!珍しいところで切支丹灯篭も
大鳥神社の本殿・拝殿は1962年(昭和37年)に再建されています。また、拝殿は2017年(平成29年)に修復が行われ、まだ新しいもの。美しい彫刻が施され、木目と随所にあしらわれた金色と黒のコントラストが素敵です。
社紋である鳳凰があちこちにあしらわれているので、それを探すのもおすすめです。
拝殿の前には1996年(大正5年)に奉納されたといわれる狛犬が鎮座しています。
拝殿の左手には目黒稲荷神社があり、倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)、素戔嗚尊(スサノオノミコト)、火産巣火神(ホムスビノカミ)、水速女命(ミツハノメノミコト)の4柱が祀られています。目黒稲荷神社では、毎年5月5日の子どもの日に例祭日の神事が行われているそうですよ。
そして大鳥神社には東京都指定天然記念物“大鳥神社のオオアカガシ”がありました。一般的なオオアカガシに比べ、非常に大きく葉色や花、果実が異なる特徴を持つことからアカガシの変種とみなされました。
しかし残念ながら2002年(平成14年)に枯死。何度か増殖を試みたもののうまくいかずに指定解除となってしまったそうです。いまでは記念碑が建てられています。
その記念碑の前にあるのが切支丹灯篭。もともとは目黒の肥前島原藩主松平主殿守(とものかみ)の下屋敷に祀られ、密かに信仰されていたのではないかといわれています。
イエスキリスト像を仏像形式に偽装した珍しい形の切支丹灯篭となっており、弾圧が厳しくなった寛永・正保・慶安~江戸中期にかけてつくられたものではないかとのことです。
イエスキリスト像は灯篭の下のところに掘られているので、ぜひ忘れずにチェックしてみてください。
大鳥神社は交通量の多い山手通りと目黒通りが交わる場所にありながら、一歩境内に入ると都会の喧騒を忘れてしまうほど落ち着いた雰囲気に包まれます。駅からは少し離れますが、お散歩がてら、お買い物やお食事のついでにぜひ足をお運びください。
すぐ近くには地元から人気の和菓子店「玉川屋」もありますよ。
1回目は大鳥神社の由緒や歴史などについてダイジェストにご紹介していきました。次回・2回目は大鳥神社で行われている神事やお祭などについてお伝えしていきます。
■取材協力
大鳥神社(目黒最古の祈願所)
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