【目黒区】めぐろまち歩きボランティアガイドと行く「2023年山手七福神巡り」、街の知られざる歴史や噂も満載!
めぐろ観光まちづくり協会が主催する「2023年山手七福神めぐり」に応募し、抽選で当たりました!
めぐろまち歩きボランティアガイドが同行し、見どころなどもガイドしてくださる「山手七福神めぐり」は、毎年大人気のイベントです。新型コロナウイルス感染症の影響で約2年ぶりの開催となるとのこと。
2022年は年明けから降った雪のため、足元が危ないということで当日中止になってしまったそう。2023年は快晴で比較的暖かく楽しい七福神めぐりになりそうです。
グループごとに分かれ、まち歩きボランティアガイドより本日のコースの紹介
私が参加したグループは、以前取材させていただいた井上裕美子さんがガイドを務めてくれることになりました。
そしてもう1人、今回のガイドが初めてという秦さんがアシスタントとして同行。そして、イッツ・コムチャンネルのスタッフの方もご一緒に回ることになりました。
江戸時代の頃の古地図をもとに、山手七福神めぐりの概要を説明。山手七福神は江戸城裏鬼門守護のため、徳川将軍の鷹狩りの際に参詣した「目黒の不動堂(瀧泉寺)」参詣道筋に設置されたもの。
江戸で最初に始められた由緒あるコースです。ちなみに江戸最古といわれているのは「谷中七福神めぐり(台東区・荒川区・北区)」だそうですよ。
今回巡る順番は港区側の「覚林寺」にある毘沙門天から。ご利益は「無病息災・長寿祈願」となっています。
山手七福神めぐりの様子は、2023年1月14日(土)地デジ10ch/11ch「イッツコム地モトNEWS」で取り上げられる予定だとのこと。放送後、YouTubeでも1週間公開するそうなので、興味がある方はぜひそちらもご覧くださいませ。
「覚林寺(清正公)」の毘沙門天は残念ながら非公開、毎月1日・15日が御開帳日
南北線・都営三田線「白金高輪駅」から徒歩約5分。まず1か所目は”せいしょうこうさん”として地元から慕われている「覚林寺(かくりんじ)」を訪れました。
こちらのお寺がある場所は、かつて肥後熊本藩主・細川家の中屋敷だったとのこと。古くは「小湊誕生寺」という名前で、1631年(寛永8年)に創建されています。
開山は、加藤清正公の養子となった日延(にちえん)。日延は、文禄・慶長の役の際に清正が日本へ連れてきた李氏朝鮮第14代国王宣祖・臨海君の姉弟、弟君だそうです。
覚林寺をお詣りする前に、門に向かって右手にあった「清正公大神儀」と書かれた石碑に立ち寄ります。
この石碑の台座部分に「不」という文字に似た記号がかすかに見えるでしょうか?几号水準点が台座に刻まれています。
几号水準点とは、明治初期頃に高低測量を行うために設けた基準なのだそうです。恒久的に残るであろうものに漢字の「不」に似た記号を入れたそうで、お寺の石碑等なら残るであろうということで刻印されたようです。
覚林寺のご本尊は、清正公の守護仏である釈迦牟尼仏。さらに清正公をも一緒にお祀りされています。
毎年5月4日・5日に行われる「清正公大祭」では、武運の強かった清正公に由来して「苦悩に打ち勝つ」という願いを込めた「葉菖蒲入リのお勝守」を授与。この両日しか手に入らないので、毎年大勢の参拝客が詰めかけます。
そして、毘沙門天がお祀りされている御堂は扉が閉まったまま。七福神めぐりでは1月7日までに参拝すると御開帳されていることが多いのですが、覚林寺に電話で問い合わせたところこちらの毘沙門天は毎月1日・15日が御開帳日とのこと。
ガイドの井上さんが手持ちの資料として、毘沙門天のお写真を見せてくださいました。
↓覚林寺の場所はこちらになります
「瑞聖寺」の布袋尊は、ちょっと珍しく厳しめのお顔
2番目に訪れたのは同じく白金台にある「瑞聖寺」です。江戸で最初の黄檗(おうばく)宗のお寺で、ご本尊である釈迦如来をお祀りしている大雄宝殿は国指定重要重要文化財。
創建伽藍は1726年(亨保11年)・1745年(延亨二年)と2回の火災で被害を受けました。大雄宝殿は1757年(宝暦7年)の再建と推定されているそうです。
屋根の上にある飾りは「ワニ」と呼ばれるもの。
京都にある黄檗宗大本山「萬福寺」の屋根の上にもあるそうで、「ワニ」とは正式には摩伽羅(まから)といい、ガンジス河の女神の乗り物とされています。
しゃちほこによく似ていますが、ワニや象のような鼻を持ち、イルカのような尾をもつ想像上の生き物で、実は足があります。火事にならないようにというおまじないの意味もあるそうです。
黄檗宗は、江戸時代に中国から渡ってきたもので、大雄宝殿は日本の寺院建築とは異なる意匠が特徴的。上写真のように「魚梆(ぎょはん)」と呼ばれる、外に吊るされた木魚や大雄宝殿の正面中央にあしらわれた桃の彫刻などは、あまり見かけないものです。
また、月台(げつだい)と呼ばれるテラスのような張り出しもあります。
この他、二重屋根になっているところも特徴的なのだそうです。そして、昨年は直接拝見できなかった布袋尊にお参り。
布袋尊といえば、まるまるとしたお腹とおおらかな笑顔というイメージがありましたが、こちらの布袋様はなかなかの強面です。ちょっと珍しいかもしれませんので、機会がありましたら、ぜひご参拝してみてはいかがでしょうか。
お正月以外は扉が閉まっていますが、正面から少しのぞき込むと見えるそうですよ。
そして瑞聖寺のもう一つある見どころは庫裏。建築家・隈研吾氏が手がけたもので、大雄宝殿から延びる軸線の南側に、コの字型の回廊空間を設けています。
中央には水盤のある中庭、中央にプラットフォームを設け、地域に開かれた空間としてデザインしているとのこと。黄檗宗寺院と溶け合う木製と鉄骨を組み合わせた軒下やルーバーで幾何学的なリズムを生み出しています。
↓瑞聖寺の場所はこちらになります
港区はこちらが最後、福禄寿と寿老人をお祀りする「妙圓寺」
3カ所目は福禄寿・寿老人を祀る妙園寺。今回のまち歩きガイドが初デビューの秦さんにご案内いただきました。
妙園寺のご本尊は妙見大菩薩で、日蓮大聖人が比叡山遊学中に感得された像で、伝教大師作と伝わります。のちにその像は足利尊氏公のもとへ。
その後、足利十三代将軍義輝公の家臣である滝本弾正忠光に下され、その子である滝本采女(滝本院日忍)が出家して、碑文谷にあった滝本弾正忠光邸内の妙見堂にお祀りしたのが妙圓寺の開基といわれています。
1678年(延宝6年)に現在の場所へ移転。東京大空襲で焼失しましたが、1954年(昭和29年)に妙見堂とともに再建されています。
妙見堂中央には妙見大菩薩、その左右に寿老人と福禄寿という配置(中は撮影禁止)。南極星の化身としてあがめらえている寿老人・福禄寿ですが、妙見大菩薩は北極星を神格化したものです。
どちらも極地とゆかりがあるというのも面白いなと思いました。
撮りそこなってしまいましたが、この妙見堂向かって左手奥に稲荷社があります。今はもう枯れてしまっていますが、滝の跡があり、かつては水が流れていたそうですよ。
↓妙圓寺の場所はこちらになります
天気がよいので行人坂上からは富士山が見えました!
目黒駅でトイレ休憩を取った後、4カ所目のお寺「大圓寺」に向かいます。大圓寺は行人坂の途中にあるのですが、その前にしばし坂の上から富士山を探します。
上写真に写っていますが見えますでしょうか?
目黒区内には富士山が見えるスポット、いくつかありますがJR目黒駅は高台になっているので、行人坂の上からもよく見えます。お正月からおめでたい光景が楽しめました。
こちらからの富士山の眺めは歌川広重が描いた「江戸自慢三十六興 目黒行人坂 富士」と同じ場所から見ている光景。当時の面影は富士山だけという感じでしょうか。
「行人坂」の由来は、山形県の湯殿山の行人たちが集まり、住むようになったことからその名がついたといわれています。
坂の途中にあるホリプロダクションビルの脇には「富士見茶屋と夕日の岡」という説明板が立っていました。江戸時代に富士山の眺めを楽しめる”富士見茶屋”がこの近くにあり、また、行人坂周辺は夕日と紅葉の名所だったことから”夕日の岡”と呼ばれていたそうです。
「大圓寺」はちょうど”甲子の日”、しかも「天赦日+一粒万倍日」が重なる「年内最上吉日」
行人坂を下り、ホテル雅叙園東京の少し手前にある大圓寺へ。訪れた1月6日(金)はまさに今年初めての甲子祭の日(大黒天縁日)です。
さらに、「天赦日+一粒万倍日」が重なるという「年内最上吉日」。ということで、大護摩供厳修を受ける参拝客が大勢いらっしゃいました。
まずは開運出世大黒天にお参り。こちらの大黒天は徳川家康のお顔をモデルに作られたといわれています。普段は非公開ですが、1月7日までのお正月と甲子祭の時はご尊顔を直接拝めます。
そしてご本尊は「生身釈迦如来(国重要文化財)」。”生身(しょうじん)”とは、生まれながらの身体をいい、人間の体内にある五臓が絹や錦の布で作られ、文書や経巻・宝玉と共に納められているもの。清凉寺式釈迦如来像です。
大圓寺の生身釈迦如来像には、白銅菊花双雀鏡(はくどうきっかそうじゃくきょう)と女性の髪の毛などが納められているそうですよ。
こちらのご本尊は珍しく本堂ではなく、その脇にある釈迦堂に納められています。釈迦堂は1988年(昭和63年)に現代建築工学の最新技術を駆使して耐震・耐火・耐水設備を整えた建物として建築。
貴重な仏像が被害にあわないよう、万全な対策が取られているというわけです。こちらも普段は非公開で、お正月の1月7日までと4月8日の花まつり、甲子祭だけ御開帳されます。
そして、大圓寺境内には五百羅漢像があります。江戸を襲った大火により大圓寺も被害にあいました。
五百羅漢像は、大火の犠牲になった方々を弔うために造られ、納められたものです。この羅漢像の中に実は、聖母マリアが赤ん坊を抱いたものがあるという噂。
上の写真中央にそれらしい像があるのがわかりますでしょうか?他の像と色合いや表情が違うので目立つのではないかと思います。
隠れキリシタンだった方を慰めるためだったのではないか、といわれているのですが本当のところは誰にもわかりません。
↓大圓寺の場所はこちらになります
「蟠龍寺」の木造弁財天と初対面、おしろい地蔵も拝観できました
5番目は山手通り沿いにある浄土宗のお寺「蟠龍寺(ばんりゅうじ)」です。こちらのお寺、名前に”龍”の字が入っていますが、本堂の天井に龍が描かれていました。
創建は目黒行人坂明王院付近にあったと伝わる称明院(1648年開創)が、1709年(宝永6年)に現在地に移転し、蟠龍寺と改名したそうです。ご本尊は平安末期から鎌倉初期の作で寄木造りの阿弥陀如来像。
東京都の重要文化財に指定されています。
お寺の門をくぐる際に、ガイドの井上さんから『皆さん、にんにくの入った食べ物を摂っていませんか?あるいはお酒を飲んでいませんか?」という問いかけがありました。
蟠龍寺入口には「不許辛肉酒入山門」と書かれた石碑(結界石)が建っています。
「不許辛肉酒入山門」とは、しんにくしゅ、山門に入るを許さずと読み、ニラやニンニクなどの匂いが強い野菜や肉などの生臭物、酒を飲んだものは山門に入ることを禁止するという意味なのだそう。
日本のお寺周辺には色街などが形成されるのが定番。飲んで酔って暴れて騒ぐ輩も多かったことでしょう。規律の厳しい浄土宗ならではの名残りとのことでした。
まず初めに洞窟の中にある石造岩屋弁財天にお参り。江戸中期から江戸城裏鬼門の鎮守として納められていると伝わっています。
そして、お正月1月7日まで開帳される辨天堂。昨年は直接拝むことができませんでしたが、今年は間に合いました。
そして、蟠龍寺といえば「おしろい地蔵」。浅草欣浄寺から遷座したもので、顔に痘痕(あばた)のある娘さんが願掛けしたところ、たちどころに治ったという故事があります。
江戸時代、おしろいに含まれていた鉛毒に悩む歌舞伎役者が、お地蔵様におしろいを塗り、願掛けしたといわれ、現在でもお参りする方が多いスポット。よく見るとお地蔵様の足、ペディキュアをされています。おしゃれ・・・。
皆さんも美肌祈願にいかがでしょうか。
そして蟠龍寺には音楽スタジオもあります!
弁財天が芸能の神様でもある、ということでここでレコーディングすると大ヒット間違いなし!?かもしれません。
↓蟠竜寺の場所はこちらになります
“目黒のらかんさん”と親しまれる「五百羅漢寺」に寄り道、お正月は無料で拝観できます
最後は目黒不動尊(瀧泉寺)の恵比寿天ですが、その前「五百羅漢寺」へ寄り道。お正月1月7日までは拝観料が無料なので立ち寄っていきました。
「五百羅漢寺」は地元から「目黒のらかんさん」として親しまれているお寺。元禄時代に松雲元慶(しょううんげんけい)禅師が、江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに、十数年の歳月をかけて彫りあげたものを拝観できます。
松雲元慶禅師は、京都生まれの江戸時代前期の仏師。五百羅漢寺には、現在305体が現存し、東京都重要文化財に指定されています。
今回初めて、拝観しましたがともかく1体、1体が全く違った表情、お姿をしており、その完成度の高さに思わずうなりました。すべてが活き活きと表現され、このような羅漢像は類を見ないといわれているのも無理はありません。
ぜひまたゆっくりと訪れたいと思いました。
↓「五百羅漢寺」の場所はこちらになります。
さらに”タコのお寺”にちょこっと寄り道!
五百羅漢寺を駆け足で拝観した後、目黒不動尊まで江戸時代によく使われた参詣道で向かいます。「たこ薬師 成就院(じょうじゅいん)」はその参詣の道すがらにあるお寺。
慈覚大師 円仁(えんにん)による開基で、唐から日本に戻る途中、海が大荒れとなり、肌身離さず身に付けていた薬師像を海神に捧げ、無事日本へたどり着くことができたといわれています。
その薬師像がある日、タコに乗って戻ってきたことにちなみ、そのお姿を霊木に刻んだ薬師如来像がご本尊です。
上写真は、徳川二代将軍秀忠公の側室であるお静の方の発願で奉納された石仏像。お静の方が男子・幸松麿を授かり、無事保科正光公の養子となりました。元服後の名前は保科正之公。
保科正之公は信州高遠城主、山形城主、会津藩城主となり、会津松平家の祖として出世しました。このことから縁結びや子宝、子育て、出世、福徳、開運を願う人々の信仰を集めています。
本殿の前に飾られているのは「餅花(花もち)」と呼ばれるもの。ヌルデ・エノキ・ヤナギなどの木に小さく切った紅白の餅や団子をさして飾ったものです。
小正月(1月15日)に飾られるもので、1年間の五穀豊穣を願う縁起の良い飾り物。江戸時代頃から盛んに飾られるようになったとか。
最近ではあまり見かけなくなったものなので、希少ですね。
↓「たこ薬師・成就院」の場所はこちらになります。
ラストは「目黒不動尊(瀧泉寺)」の恵比寿神にお参りし、満願成就です
山手七福神めぐり、最後は「目黒不動尊(瀧泉寺)」へ。関東最古の不動霊場であり、日本三大不動の一つに数えられます。
ちなみに日本三大不動とは、熊本県「木原不動尊」、千葉県「成田不動尊」と目黒不動尊を指すというのが一般的ですが、他にも福島県「中野不動尊」や大阪府「瀧谷不動尊」も名乗りを上げています。
目黒不動尊の恵比寿天は、本堂などがある境内ではなく、道路を挟んで向かい側、恵比寿・渋谷行きのバス停側の三福堂の中にお祀りされています。
三福堂の中には恵比寿神の他に弁財天・大国天もご一緒にお祀りされていました。昨年訪れた時は三福堂の扉が閉まっていましたが、今回は開いていたので弁財天・大黒天とも直接拝観できました!
やはり、山手七福神めぐりは1月7日まで回らねばなりませんね。
昨年は1人で回っただけなので、表面的なことしかわかりませんでした。目黒区に詳しいガイドさんと一緒に回ることで、知らなかったトリビアや歴史について詳しく知ることができてとてもラッキーです。
こちらの記事で紹介しきれなかったこともたくさんあり、めぐろまち歩きボランティアガイドとともに回る目黒観光はかなりお得で勉強になることばかりです。
「めぐろ観光まちづくり協会」の会員になると、会員向けのツアーも定期的に開催されます。皆さんもぜひ、会員になってはいかがでしょうか。
実は、名誉会長はあの森田一義(タモリ)さんなんですよ。
最後に「御朱印帳」のトリビアを!集めた御朱印帳はその後どうする?
めぐろ観光まちづくり協会主催、まち歩きボランティアガイド同行「2023年山手七福神めぐり」では、御朱印を頂いている時間が取れないため、事前申込み制となっていました。
ツアー出発前に書置きした御朱印をまとめて拝領。上写真はいただいた全6寺の御朱印となります。
神社仏閣を訪れ、御朱印を集めるのが最近ブームになっているようですが、御朱印帳について神社検定1級を持っている友人・ゆだぽんさん(オーラ視を中心としたスピリチュアルリーディングを行っている方)にちょっと質問してみました。
御朱印の始まりは寺院で、納経をした証としていただくものだったそうです。寺院も神社も「御朱印」といっていますが、寺院の方は正式には「納経印」といいます。
今でも納経しないと書いてもらえない寺院がいくつかあるそうです。御朱印をいただく場合、寺院と神社の御朱印帳は基本的に別にした方が良いとのこと。
分けてないと御朱印を授与していただけない寺社もあるので要注意です。
寺院の納経印がブームになって神社も始めたという流れだとのこと。特に驚いたのが、御朱印帳は亡くなったとき、御棺に入れて火葬していただくものなのだそうです!
御朱印帳は功徳の証であり、天国へと導いてくれるパスポートのような感じなのでしょうか。
ゆだぽんさんのブログで神社・仏閣に関する記事をわかりやすく解説されていらっしゃるので、そちらもぜひ参考になさってださいね。ゆだぽんさん、情報ありがとうございました。
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