【目黒区】御鎮座450年を迎える上目黒氷川神社の宮司さんにインタビュー、地元の拠り所として愛され続ける理由とは?
東急田園都市線・池尻大橋から徒歩約5分のところにある上目黒氷川神社。2023年に御鎮座450年を迎えるにあたり、10月15日(日)に上目黒郷土祭りとして「一心行列」が実施されます。
【目黒区】上目黒氷川神社御鎮座450年を記念して行われる上目黒郷土まつり「一心行列」、10月15日(日)は“ひとつ心に力を合わせて”楽しみましょう
そこで今回は上目黒氷川神社の宮司である田中芳明さんにインタビュー。神社の歴史や地域とのつながり、そして「一心行列」についてもお話を伺ってきました。
前編では上目黒氷川神社の歴史やご由緒などを、後編では「一心行列」について詳しくご紹介していきたいと思います。
甲斐国上野原の産土神をこの地で祀ったのが始まりといわれる「上目黒氷川神社」
上目黒氷川神社の御祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)、天照大神、菅原道真公です。
ご由緒によれば、1573年頃に甲州の武田信玄家臣であった加藤氏が、上目黒村に移り住んだ際、甲斐国上野原(現在の山梨県上野原市)より、産土神(うぶすなかみ)を一緒にお迎えしたのが始まりといわれています。
上野原には、武蔵七党の古都氏が築いた上野原城があり、武田信玄の時代には加藤氏が入城。上野原市教育委員会のホームページを拝見すると、
上野原台地の西南端に位置し、南西面に切りたった断崖と東側に深く切れこんだ天然の掘割があるため敵に攻められにくく、館を構えるのには絶好の地だった。
とあります。現在は館があった場所に中央高速道路が通り、周辺の谷や空堀は埋め立てられてしまってかつての景色を見ることは叶わなくなりました。
宮司の田中さんは実際に、上野原城跡を訪れたことがあるそうです。
「上野原城があったことを示すのは、上野原市教育委員会が立てた案内板があるだけ。当時の様子を知ることはできません。
しかし、山やその間を流れる川、そして川のすぐそばにあったなど、どこか上目黒村を感じさせる風景だなと思いました。上目黒氷川神社からかなり正確に真西にあった、というところにもびっくりです。
昔の人の知恵や技術にはとても驚かされました。」
江戸へ上った加藤氏は、故郷の景色をかつての上目黒村に重ね、懐かしんだのかもしれませんね。
上目黒氷川神社の氏子は、疫病知らずといわれてきたのは素戔嗚尊のおかげ!?
目黒川はかつて何度も氾濫を起こし、上目黒村の人々の暮らしを脅かしてきました。現在では護岸整備や目黒船入場調節池の設置など進み、水害のリスクが低減されているのはご存じの通りです。
水害は田畑や家に被害をもたらすだけではなく、感染症が広がるリスクがあります。京都にある八坂神社は、鴨川の氾濫を鎮め、疫病封じとして祀られたことで有名。
もちろん、ご祭神は素戔嗚尊です。「日本書紀」において、素戔嗚尊は天上界を暴れまわる厄介者として描かれています。
その後、地上に降りて疫病をまき散らし、集落の人々を皆殺しにしてしまうという恐ろしい神とされてきました。しかし、出雲を訪れた際、八岐大蛇から稲田姫命を救い出すヒーローに。
現在では疫病を鎮める神として各地でお祀りされてます。
八岐大蛇の正体は一説によると、何度も氾濫を起こしてきた斐伊川(ひいかわ)だったのではという説が。素戔嗚尊は氾濫を抑える治水事業を行うことで疫病を防いだのでは、という考察もあり大変興味深いものです(参照元:雲南市ホームページより)。
疫病封じとして霊験あらたかな素戔嗚尊を御祭神とする上目黒氷川神社が、上目黒村に住む村人たちから篤く信仰されてきたのは必然。
神社の氏子たちは素戔嗚尊のおかげで“疫病知らず”と伝えられてきたのも納得ですね。
ちなみに上目黒氷川神社では、6月末に行われる“夏越しの大祓”で「茅の輪」を設置。
目黒区内で「茅の輪」が設置されるのは、ここ上目黒氷川神社と自由が丘の熊野神社(御祭神は素戔嗚尊)2か所だけです。
上目黒氷川神社よりも古くからお祀りされてきた「稲荷神社」
上目黒氷川神社には2つの末社があります。そのうちの一つが境内西側に鎮座する稲荷神社。御祭神は「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」です。
宇迦之御魂神は「古事記」に登場する女神で五穀豊穣・商売繁盛の神様として知られ、親しみを込めて“お稲荷さん”と呼ばれることも。「日本書紀」では、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記されています。
昔、上目黒氷川神社がある場所のことを稲荷山と呼ぶことがあったことから、創建は氷川神社よりも古いのかもしれません。
3月の初午の日に合わせて、商売繁盛や家内安全祈願として幟旗を奉納することができます。
本殿を挟んで東側に鎮座するのは目黒富士の遺構と「富士浅間神社」
もう一つの末社が「冨士浅間神社」で、御祭神は火の中で子どもを産んだ“安産の神様”である木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)です。
江戸時代、庶民の間では富士山信仰が盛んに行われましたが、実際に富士登山をすることが難しかったため、富士山を模した“富士塚”を造り、富士講を行うのが大流行。目黒にも2つの冨士塚がありました。
富士登山をするような感覚で登り、浅間神社にお参りできるようにしたものです。
1つは目黒区上目黒の「目切坂」上に1812年(文化9年)に築かれたもの。もう1つは中目黒の「別所坂」にも1819年(文政2年)に造られました。
最初に造られた富士塚は「目黒元富士」、次に造られたものは「目黒新冨士」と呼ばれていたそうです。「目黒元富士」は高さ12mもあったそうですよ。
1878年(明治11年)に2つの富士塚のうち、目黒元富士にあった浅間神社や石祠、石碑を上目黒氷川神社に遷座。
正面玄関の西側、交番との間に自然の崖を利用した冨士浅間神社登山道も1975年(昭和50年)頃に整備されました。
宮司の田中さんのお父様の時代には、上目黒氷川神社の境内から中目黒駅の先までよく見えたとのこと。もちろん富士山もです。
目黒天空庭園にも「富士見台」と呼ばれる展望台があり、運がよければ今でも富士山が見えることがあります。目黒で富士講が盛んになるのもうなづけますね。
神社脇にある冨士浅間神社登山道を通ってお参りすれば、当時の庶民の気持ちになって、富士山詣でを体験できますよ。皆さんもぜひ!
毎年神社では、7月1日には氏子崇敬者とともにこちらの登山道を登り、山開き神事と浅間神社例大祭が斎行されています。
上目黒氷川神社では菅原道真公をお祀りする「青葉台北野神社」も合祀
青葉台北野神社は現在、中目黒駅から徒歩約8分、目黒川の左岸近くビルの谷間に鎮座。1908年(明治41年)に上目黒氷川神社に合祀されました。
上目黒村に住む農民・秋元市郎兵衛が土の中から菅原道真公の像を発見し、鎮守と崇めて1700年頃にお祀りしたのが最初。西郷山公園となっている、元中川修理太夫の抱屋敷内に祀られてきたそうです。
毎年、9月第3土曜・日曜には例大祭が行われています。
↓「青葉台北野神社」の場所はこちらになります。
上目黒神社のシンボルは御神木?それとも“かえで”ちゃん!?
上目黒氷川神社を訪れると、ひときわ目に着くのが社務所脇にある大きなクスノキの御神木。言い伝えによると、今から150~200年ほど前に、近所に住んでいる方が植えられたものだそうです。
片手で持てるほどの小さな苗だったのに、植えた後は不思議と成長が早く、今や高さ約20m、幹周りは5mを超す大樹になりました。
そしてもう一つ、社務所脇のアイドルといえば豆柴の“かえで”ちゃん。
かえでちゃんに会いたくて神社を訪れるという方も多いのでは?
取材で訪れた日は、暑い日が続いていたため、かえでちゃんに会うことができずに残念です。
歩道から54段という石段の上にある上目黒氷川神社、大山道拡張のため現在の急こう配に
上目黒氷川神社は玉川通り(国道246号線)に面しています。神社に上る石段は1816年(文化13年)に小松石(箱根火山噴火により流れ出た溶岩が、海に押し流されて急速に固まって形成されたもの)でつくられました。
1905年(明治38年)に神社前の大山道(現在の玉川通り)拡張のため、石段を改修。現在はかなりの急こう配を上る造りとなっていますが、かつては玉川通りの中ほどまで伸びるゆるやかな石段が続いていたそうですよ。
こちらの石段、ベビーカーや車いすで参拝される方にとってはちょっと上るのが厳しい。ということで、朝9時~16時30分の間、神社向かって右隣りにある茶色いマンション「ソリッド大橋」のエレベーターをお借りすることができるそうです。
エントランスインターフォンで「401」を呼び出しして4階へと上ると、氷川神社境内へ出られるとのこと。石段が上れないとご参拝を諦めていた方、ぜひご活用ください。
ざっと駆け足で上目黒氷川神社の歴史やご由緒をご紹介してきました。次回後編ではいよいよ「一心行列」について詳しくご紹介したいと思います。お見逃しなく!
★悪天候の中スタートした「一心行列」ですが青空でフィナーレ★
■取材協力
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