【目黒区】過酷を極めた駒沢練兵場の急坂路訓練。苦楽をともにした馬への鎮魂も込めて大切にされている「東山の馬頭観音」

東山の馬頭観音

目黒区内に残されている「馬頭観音」を訪ねる街歩き。今回は東山中学校脇の歩道に残されている「東山の馬頭観音」についてご紹介したいと思います。

こちらの馬頭観音はよくある馬頭観音像を刻んだものではなく、駒沢練兵場の旧軍隊兵士が、厳しい訓練で倒れた2頭の軍馬の供養碑として建てたものです。

目黒区教育委員会の碑には以下のような説明が書かれていました。

正面に馬頭観音の文字を刻み、背面には「“苫良号(とまよしごう)”、腰椎骨折、大正11年4月23日死去、”福富号”急性伝染性貧血、大正11年5月10日死去、大正11年5月22日供養、第3中隊」と由来が書かれています。

馬頭観音碑は、東山中学校の生徒や地元の方々の善意で、屋根が架けられ小屋の中に入れられており、大切にお祀りされています。

東山周辺は旧駒沢練兵場の跡として厳しい軍事訓練が行われていた場所

めぐろウォーク街歩きMAP「駒場編」

(画像提供:一般社団法人 めぐろ観光まちづくり協会)

現在の駒場野から大橋、玉川通りを越えて東山までのあたりは「駒場・駒場野」といわれていたそうです。江戸時代は将軍家の鷹狩り猟場として使われました(参照元:一般社団法人 めぐろ観光まちづくり協会「めぐろウォークまち歩きMAP 駒場編」より)。

幕末には幕府陸軍の洋式訓練場に。さらに明治時代には富国強兵策を進めるに至って、駒場野周辺は、軍用に適した土地として脚光を浴びることになります。

駒沢練兵場は駒場野の南に置かれた軍事訓練施設

1897年(明治30年)、駒場野の南に置かれた駒沢練兵場は、現在でいうと南北は国土地理院跡から三宿病院、東西は東山中学校から池尻小学校にまで及ぶ広大なもの。旧陸軍近衛第1師団5,000人の将兵と1,300頭の軍馬が日夜訓練に励んでいたそうです。

東山の傾斜地での急坂路訓練は過酷さを極めたもの

中でも東山の傾斜地を使った急坂路訓練は大砲をつんだ重たい砲車や弾薬車を、6頭立てや8頭立ての馬に引かせ、坂を駆け上がり、下りを繰り返す人馬一体となっての厳しい訓練。
馬や牽引車(けんいんしゃ)が故障したという想定で、兵隊たちが引き上げるという訓練も行われたそうです。

鍛えられた兵隊といえど、この訓練は耐えがたいものだったのではないでしょうか。激しい訓練に倒れた2頭の軍馬を哀れんだ兵隊たちが、お金を出し合いつくったのがこの「東山の馬頭観音」でした。

地元から大切にされている東山の馬頭観音

今では静かな住宅街となっている東山周辺。「東山の馬頭観音」が、日露戦争へと向かう日本の暗い影、過酷な歴史を今に伝えています。

(参照:目黒区ホームページ「駒沢練兵場」)

↓「東山の馬頭観音」がある場所はこちらになります。

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